足利将軍は四代が義持、五代義量のあと六代目を誰にするかでひともんちゃくありました。
今度こそ声が掛かるのではないかと心待ちにしていた鎌倉公方足利持氏は、一言も相談がなかったので、京都の幕府に 対して反旗を翻すことになりました。 妙光寺1
十年にわたる長い間、将軍義教と鎌倉公方持氏の間に、
永享の乱と呼ばれる戦いが続きました。
持氏の家臣の冨永三朗左衛門は、長い戦乱に嫌気が差し て、農夫の暮らしをすることになりました。
寛正(1460~1465)という年のある日、美濃の生まれである賢信と名乗る一人の旅僧が富長の家を訪れ、富長の家を宿として、近在を托鉢をしてあるきました。