妙光寺について

妙光寺の歴史

足利将軍は四代が義持、五代義量のあと六代目を誰にするかでひともんちゃくありました。
今度こそ声が掛かるのではないかと心待ちにしていた鎌倉公方足利持氏は、一言も相談がなかったので、京都の幕府に対して反旗を翻すことになりました。
十年にわたる長い間、将軍義教と鎌倉公方持氏の間に、永享の乱と呼ばれる戦いが続きました。
持氏の家臣の冨永三朗左衛門は、長い戦乱に嫌気が差して、農夫の暮らしをすることになりました。

寛正(1460~1465)という年のある日、美濃の生まれである賢信と名乗る一人の旅僧が富長の家を訪れ、富長の家を宿として、近在を托鉢をしてあるきました。

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賢信が読経三昧に耽っていたある夜のこと、岩窟の外に読経の声を聞き、また同じ頃、富長の夢枕に日蓮様がお立ちになって、戦乱の折、我が像が土中に埋められているから掘り出して祀ってもらいたいと、お告げになったというのです。
富長と賢信は読経の聞こえたあたりを掘り起こしてみました。すると日蓮様の小さなお像が出てきました。

文正元年(1466)、二人は近くに小さな庵を建て、賢信が庵主となってこのお像を祀りました。
二年程たって応仁二年(1468)に富長が病死、あとを追うように妻も亦亡くなりました。長男の大炒助も夭折したため、次男の雅樂助が両親の菩提を弔って一寺を建立、庵に祀ってあった土中出現の尊像を寺の本尊として祀ることにしました。

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寺は父の法名(戒名)「法久」と母の法名「妙光」をとって、「法久山 妙光寺」と名づけました。
文明三年(1471)のことでした。

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現在、妙光寺に伝わっている土中出現祖師像はこの時のお像であるという事です。
像の高さ十六・七センチメートル、寄木造り、玉眼入りで、全体に厚い彩色が施され、右手に笏、左手に経巻を持っておられます。
両袖を左右にひろげて座った像で、造立時期は、十五世紀の中頃であろうということです。
久木 松岡富士男(現 富春 氏)家は、富長の後裔であると伝えられております。

内田武雄 著「逗子のむかし」